2009年2月アーカイブ

うさぎおいしーフランス人

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昨日,紀伊国屋書店でぶらぶらしていたら村上春樹の「うさぎおいしーフランス人」が目にとまった.持っていなかったので買ってみた.ダジャレ大魔王復活なるか.

帰ってきてPCを開いたら村上春樹のイスラエルでのスピーチの記事がでていた.

何となく全文,英語で読まなくてはいけないような気がして読んでみた.

そして,下記の部分を読んだ際に泣いてしまった.何で泣いたかはわからないが私自身が両親に対する葬送儀礼が十分でないと思っているからかも知れない.


My father died last year at the age of 90. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the war.


私の父は昨年90歳で他界した.父は教員を退職後,ときおり仏教の僧侶として仕事をしていた.父がまだ大学院生だったとき,父は陸軍に徴兵され,戦うために中国へ送り込まれた.戦後に父の子として生まれた私は,朝食前に父が仏壇にむかい読む,長く深いお経を聞くことを日課として育った.ある時,私は父にどうして毎朝お経を上げるのか聞いた.父は戦争で死んだ人達のためにお経を上げていると教えてくれた.


私の父は昭和11年生まれ,終戦時9歳.私は父から戦争当時の話は聞いたことがなかった.子供の頃の話も聞いたことはなかったが,村上春樹のように聞くこともしない間に,永遠に聞けなくなった.母方の叔父は戦争にいっている.将校だったらしいが,おじさんからも戦争当時の話を聞いた記憶はない.その年代の人に共通するかも知れないがおじさんは信心深かったと思う.戦争に関わった個人の日本人はしっかりと戦争で亡くなった人を弔ってきたのだと思う.誰にも言わずに.でも,世間がきちんと弔っていないから私の様な戦後生まれの,のーてんきがこんな機会でもないと戦争でなくなった人達へ思いが至らないのではないかと思った.


村上春樹のスピーチでもう一点感動したところは,彼は自らの職業は小説家であり,小説家の仕事は善悪を判別することであり.また,個人の物語を書き続けることだと明言したところである.


This is not to say that I am here to deliver a political message. To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course.

私がここにきたのは政治的なメッセージを言いにきたわけではない.もちろん,事の善悪を判断することは小説家の責務のひとつではあります.

I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

小説家の仕事は個々の命のかけがえのなさを浮き上がらせるために物語りを書き続ける事だと信じている.その物語はある時は生と死についてであり,ある時は愛の物語であり,またあるときは恐怖になき震える人々の物語であったりする.ときには腹を抱えて笑う物語もある.これが私たち小説家が毎日毎日物語を紡ぎだいている理由です.

小説家は善悪を判断し,他に替わるものがない個の物語を語り続ける.このことを持ってThe Systemと対峙している.矯正歯科専門医は仕事として何をすればいいのか.患者さんの歯並びとかみ合わせをきちんと治すこと,先達が創り上げててくれた技術と理論を後から来る人に伝えることが仕事だと思う.それともう一つ,患者さんが安心して矯正治療を受けられる環境を作り出すこと,これをしないと矯正治療そのものが無くなってしまう恐れがある.この仕事はThe Systemに対する戦いなんだと思う.戦争と比べると歯科矯正を取り巻く環境なんか重箱の隅っこかもしれないが,それが私の仕事だと思う.

人はなぜ歯並びを治すのか?

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人はなぜ歯並びを治したいと思うのか?という問いに対する答えをいままで聞いたことがなかった。どう治すか?ばかりでなぜ治す?という問いを建てたことがなかった。思っても深く考えなかった。よって、答えはわかりません。ということになる。

内田樹が本の中で人はなぜピアスをつけるのか?の答えを考えていた。とりあえず引用する。

「結局、こうやって人工的な都市環境になってくると、結局残っている自然て自分の身体だけなんですよ。だからピアッシングとかタトゥーとか、いろいろ自分の身体を加工する人たちがいますけれど、ああいうふうに身体に穴を開けたり傷つけたりするのって、養老孟司先生ふうにいえば"文明化"ですよね。自分の身体という自然に向かって、"これは私が所有するものである。だから私がどんなふうに扱おうと、私に全権がある"と宣言していることでしょう。身体に文明を刻印したってことですよね。最後に残った自然が自分の身体なんだから、それに文明を刻印するというのは、自然を排除しているということですよね。」(橋本治と内田樹、筑摩書房)

そうか、そうだったのか!最後の残った自然に対して文明を刻印している行為が矯正治療であったのか!ちょっとまて、ピアスとかタトゥーとかは確かに自然界には存在しない。しかし、きれいな歯並びやきちんとした歯並びは自然界に存在して、それに対して、我々は「きれい」だとか「ここちよい」なのどプラスの感情をもつ、反対にすごいでこぼこの歯やすごい出っ歯などはやはり「醜い」などのマイナスの感情を持つ。だから、歯並びの悪い人がきれいな歯並びになりたいと思うのが自然に対する文明の刻印だとは思わない。反面、無人島に自分一人しかいない状況であれば歯並びなんか治そうなんて思わないから、他人との関わり、社会との関わりの中で、他人にどのように見られているかという気持ち抜きには、矯正治療を行おうとは思わないはずである。よって矯正治療はある程度、社会的なものであると推論できる。

一方、ある種の鳥の世界では、尾羽が長くかつ、左右の長さがそろっている雄の方が交尾の際のパートナーを見つけやすいのだそうだ。(竹内久美子、シンメトリーな男 新潮社)竹内久美子は尾羽の形質が寄生虫なんかに犯されていないという雄の形質を端的に表しているからメスが選ぶのであろうと推論している。もし我々が持つ歯並びに対するプラスの感情とマイナスの感情が鳥のパートナーの選択と同じレベルで遺伝子などに組み込まれているとすれば、歯並びは治そうと思って当たり前だということになる。まーここでも、生殖のパートナーを見つけるためという、社会的な要素が入っている。基本的に社会的であることは文明的であることと同義ではない。社会的であることは人間の本質であるとおもう。そうでないと生きていけないし、子孫も残せないし。ということで社会に暮らす人間が歯並びがきれいな方がいいじゃンと思うのは当然のことであるという結論でよろしいかな。皆さん。

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